松籟社ホーム  >  安藤哲行「現代ラテンアメリカ文学併走」

2023/12/31

記憶をたどる:イバルグエンゴイティア『二つの犯罪』

  記憶は曖昧になる。それを呼び覚ましてくれるのは写真、動画、日記や書き残したもの、あるいは人の話だろう。学生の頃、国際セルバンテス祭が創設される直前、グアナフアトで学んだことがあった。ホームステー先のプラド家にはアルベルト、カルメン、ブルーノという3兄弟姉妹がいて、ティタという愛称のカルメンは劇団に入っていた。その劇団は、サン・ロケ教会とカルロス・フエンテスの2作目の長篇『良心』の舞台となった家、そして対面の家々で囲まれる空間を舞台背景に、セルバンテスの『エントレメセス』を上演していたが、あるとき、ティタが、街はずれでロルカの『イェルマ』をするから出てみないか、と言う。何をするの、と訊けば、松明を振り回すだけでいい、との返事。それくらいのことならできそうだったが、内に入ると全体が見えないので、丁寧にお断りした。グアナフアトでの愉しみはときどき行われるこの劇団の演劇を見るか、映画館に行くか、音楽会にでかけるくらいのもので、信号機のない、またネオンの広告もない、まさしく時間が止まったような、植民地時代を色濃く残していた街並みを散歩するのが日課だったものの、なぜか退屈することもなく8カ月あまりを過ごした。


フエンテス『良心』の舞台

  それから10年ほどたって、家族を連れてふたたびグアナフアトを訪れた。するとティタには3人の子がいて、家の前の公園で幼い娘たちとよく遊んでくれた。言葉はわからなくても、意思が疎通すると感心した覚えがある。ただ、このときいちばん驚いたのは、ティタが長女をアマランタと名付けていたこと。訊けば、やはり、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の登場人物の名だった。父母、祖父母といった人の名を継承するというのがスペイン語圏の慣習で、『百年の孤独』の読者は同じ名がよく出てくることに戸惑うものだが、そんな習わしを破ってのことだった。そのあおりを受けたのか、次女はティタと同じ、カルメンという名だった。このときから何度もメキシコに出かけ、プラド家を訪ねたが、それも2006年が最後になった。

  もともと筆不精なので、というのは言い訳にもならないが、その後プラド家とは音信不通になった。だが、今年、ふと思い立って、ずっと前にアマランタから聞いていたメルアドに、だめもとのつもりで、メールを送った。すると返事がきて、それからはたびたび連絡をとりあっている。彼女は、グアナフアトからティフアナに移り、そして今はグアナフアトに戻って、詩人、グラフィックデザイナーとして活躍している。そんなアマランタから、12月にはスペインからイバルグエンゴイティアのことを調べに人が来るというメールをもらった。先に記したティタの弟のブルーノ、つまりアマランタの叔父の名付け親がイバルグエンゴイティアということもあってのことか。そのメールを読んで、そうか今年は彼が航空機の衝突事故で亡くなってから40年になるということに気づかされた。あわててネットで調べると、スペインでもメキシコでも様々な行事が行われてきている。

  イバルグエンゴイティアといえば、『エバは猫の中』(サンリオ文庫、1987、その後、『美しい水死人』、福武文庫、1995)に「カナリアとペンチと三人の死者のお話」という短篇を訳したが、長い紹介文を書いたことを思い出した。だが、拙書『現代ラテンアメリカ文学併走』(松籟社)には、イバルグエンゴイティアの名はあるものの、独立した項目としては取り上げられていない。そういえばと思って、同じ時に亡くなったマルタ・トラーバの『陽かがよう迷宮』(現代企画室、1993)の解説を見ると、確かにその冒頭で、1983年12月7日、スペインのバラハス空港であった航空機衝突事故の直前の11月27日、同空港間近での航空機墜落事故について触れている。トラーバは夫のアンヘル・ラーマ、そしてイバルグエンゴイティアらとともに第1回イスパノアメリカ会議に出席するためにコロンビアに向かおうとしていたところだった。だが、ここでも事故死した作家たちの名として挙げてあるだけ。もっと長いものを、彼の小説のどれかについて書いたはずと思い、かすみかけた記憶の糸をたどった。すると、『現代ラテンアメリカ文学併走』は『ユリイカ』に連載していたコラムのうち文学に関するものを主に選んでまとめたのではなかったかということに行きついた。そこで、選ばれなかったコラムを調べると、果たして、あった。こうして記憶のか細い糸を(まだ前夜の食事のメニューを忘れるほどではないが)たどるというたいそうな作業が終わった。

  イバルグエンゴイティアは好きな作家の1人であり、この死後40年という機会に追悼の意味を込めて、見出した原稿、『ユリイカ』(1995年11月号)に載ったコラムを冗長ではあるが、年号等だけはアラビア数字に替えて、他はそのまま訂正はせずに、以下に転載したい。


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メキシコのアカデミー賞、アリエル――イバルグエンゴイティア『二つの犯罪』

安藤哲行


  キリストの顔を見たのはいつのことだろう。確か、30年ほど前のジョージ・スティーヴンスの「偉大な生涯の物語」だったはず。それまでは、あの「ベンハー」でもそうだが、キリストの顔は巧みに影で隠されていたのではないか。以後、キリスト=マックス・フォン・シドーというイメージがなかなか払拭できなかったが、そんな単純な観客がいることが分かっていたために、ハリウッドは長年キリストに顔を与えなかったような気がする。カルロス・フエンテスは長篇『ダイアナ、孤独の狩人』で「映画は人物の実像を与えるばかりである。……ところが文学はわたしたちの生々しい想像力を解放する。トーマス・マンの小説ではアッシェンバッハは変化する想像力のせいで顔を数限りなく変えてヴェニスで死ぬ。ヴィスコンティの映画では固定した、取り替えのきかない、避けることのできない顔、俳優ダーク・ボガードの顔しかない」と語る。映画とそのもとになる文学作品は共犯関係にあるが、イメージの固定化という映画の長所は逆に原作にとっては短所となる。いずれにせよ、映画を見てから原作を読むか、原作を読んでから映画を見るか。映画を見て駄作と思う人はわざわざ原作は読まない。でも、その逆は?

  メキシコの若い監督ロベルト・スネイデルは「小説は別物ということは分かっています。映画と小説は別々の二つの体験なんです。映画が面白かった、楽しめたと思う人は小説を読まないといけません」とインタヴューで答えている(ホルナーダ紙、1995年7月9日)。スネイデルは1962年生まれ。メキシコのイベロアメリカ大学で映画を専攻した後、アメリカン・フィルム・インスティチュートで映画の監督術を学んで三つの中編映画を撮るが、いずれも駄作と自ら批評。だが、最初に撮った長編映画「二つの犯罪」でその才能を開花させる。同作品は今年、フランスのナントでの大賞をはじめ七つの国際的な賞を受賞したが、メキシコでは作品、助演男優、助演女優の三部門でアリエルを受賞。

  ここで簡単にこのアリエル賞に触れておきたい。この賞はメキシコのアカデミー賞といわれ、1946年、ウイリアム・ワイラーが「我等の生涯の最良の年」で作品・監督・男優・助演男優等七つのオスカーを受賞した年に、つまり、本家から20年ほど遅れて始まったが、栄えある第1回目はロベルト・ガバルドンの「小屋」が作品・監督・女優の三賞を受賞。このときの女優賞はかのドロレス・デル・リオ。47年はエミリオ・フェルナンデスの「恋する女」がこれまた作品・監督・女優の三賞を受賞。女優はあのマリア・フェリックス。次は……と綴っていくと、古いなあという声が聞こえてきそうなので、作品賞だけに絞ってめぼしいものを見ていけば、51年がルイス・ブニュエルの「忘れられた人々」、56年が同じくブニュエルの「ロビンソン・クルーソー」、ずっと飛んで75年がミゲル・リティンの「マルシアの証言」、77年がホセ・ドノソ原作、アルトゥーロ・リプステインの「境のない土地」、84年がポール・ルデュクの「フリーダ・カーロ」、87年がホセ・エミリオ・パチェーコ『砂漠の戦い』を原作にアルベルト・イサアクが撮った「マリアーナ、マリアーナ」、91年が日本でも話題になった、ラウラ・エスキベル原作、アルフォンソ・アラウの「赤い薔薇ソースの伝説」。この作品賞に限らず、文学作品を映画化したものが結構、アリエルを受賞している。それはメキシコの作家が積極的に映画に関わっていることが一因ともいえ、今年度、監督・主演男優・主演女優等11のアリエルを獲得したホルヘ・フォンスの「奇跡通り」もそう。これは作家・劇作家として著名なビセンテ・レニェーロが脚本を担当。ただし原作は1988年にノーベル賞を受賞したエジプトのナギーブ・マハフーズの同名の小説。また、前述のスネイデルの「二つの犯罪」も同名の小説を映画化したもの。


ジョイ・ラヴィール『女と船』
Joy Laville, “Mujer y barco”

  「二つの犯罪」の原作者はメキシコのホルヘ・イバルグエンゴイティア。1928年生まれ。28年といえばガルシア=マルケスやカルロス・フエンテスと同じ年だが、違うのは二人がいまだ活躍しているのに対して、イバルグエンゴイティアはもういないということ。83年11月27日、スペインのマドリッドを間近にしてアビアンカ航空機が墜落したが、その事故でラテンアメリカの文学界は一瞬のうちにこのイバルグエンゴイティアやマヌエル・スコルサ、マルタ・トラーバ、アンヘル・ラーマといった作家、批評家を失くしてしまった。なかでもわずか55歳のイバルグエンゴイティアの死はショックだった。イバルグエンゴイティアは筆者が学生のころ世話になったホームステー先の次男の名付け親であり、彼がかつて住んでいた家は近くにあった。彼の作品の多くの表紙を飾る絵は彼の妻ジョイ・ラヴィールが描いたものだが、彼女の絵も好き。彼の死を悼むのはそうした個人的な関わりからではない。イバルグエンゴイティアはフォークナーのヨクナパトーファと同じように、メキシコ国内に一つの州を創造して数々の作品を産みだしはじめていたし、ユーモアという点で、いわゆるブームの作家たちでさえ追随できない世界を持っていたからだ。思えば、この国へのラテンアメリカの作家、作品の紹介にはかたよりがあったし、いまもある。確かに出版事情からすればアメリカやフランスの作家のようになんでもかんでもというわけにはいかないため、それぞれの作家の代表作、世にいう傑作を翻訳の対象にせざるをえないのだが、それにしても残念なことに、誰でも気楽に読書の愉しみを味わえるものは少ないといわざるをえない。

  閑話休題。イバルグエンゴイティアは53年の『スサーナと若者たち』で劇作家としてスタートするが、最初に書いた小説、大統領をやめても隠然たる力を持ったカジェスと軍指導者たちの軋轢をコミカルに描いた『八月の稲妻』(1964)でキューバのラス・アメリカス賞を受賞。1928年のオブレゴン次期大統領暗殺事件を題材にした『襲撃』(62)でも同賞を受賞したものの、この戯曲はメキシコ革命の偉人たちに対して不敬という理由で七五年にようやく初演。メキシコ小説賞を受賞した『君が見るこの廃墟』(74)でイバルグエンゴイティアはメキシコ中央部に創造したプラン・デ・アバホ州の全容を初めて見せる。クエバノ大学で教えるために首都から久しぶりに戻ってきた教授の故郷に寄せる思い、行動、交遊を描いたこの作品以後、売春宿の女将が死んだ女たちを次々に家の庭に埋めたという実際の事件に基づいた『死んだ女たち』(77)、『二つの犯罪』(79)、そして、メキシコ独立戦争の歴史を物語に変えた『ロペスの足音』(81)と架空の州を舞台にして物語世界を展開したが、先に述べた事故でその世界の発展は停止を余儀なくされた。イバルグエンゴイティアはフエンテスのようにメキシコ(人)をテーマに大なたを振るうことはしない。自分の思想をエッセイとして物語の中に書き込みはしない。メキシコ語を創造しようとしてわざわざ悪文にすることもない。彼の綴る物語は平明な文章と読者を退屈させない展開、あふれんばかりのユーモアに支えられている。今回、映画化されたのを機に『二つの犯罪』を久しぶりに読み返してみたが、その世界はまったく古びていないし、筋の運びのうまさにあらためて唸らされるばかりだった。


イバルグエンゴイティア『二つの犯罪』
Jorge Ibargüengoitia, Dos crímenes
(Joaquín Mortiz,1979)

  『二つの犯罪』の主たる舞台はプラン・デ・アバホ州、州都クエバノから五〇キロのところにあるムエルダゴの町。「いまからぼくがする話は警察が憲法を踏みにじった夜にはじまる。その夜はチャムーラとぼくが五周年を祝うパーティを開いた夜でもあった。でも結婚記念日じゃない。ぼくたちは結婚していないから。企画局のアトリエにある作業台の一つで彼女が〈ぼくに身をまかせた〉4月13日の午後を記念する日」という冒頭からしてイバルグエンゴイティアらしい発想だが、そのパーティに招待した友人たちのせいで、32歳の主人公〈ぼく=マルコス〉とチャムーラは数カ月前に大きな衣料店に放火したテロリスト・グループの一員と見なされ、逮捕寸前にかろうじて着の身着のまま首都を脱出。チャムーラは従姉妹のところへ。また、マルコスは10年会っていない伯父ラモンのところへ。夜、ムエルダゴに着き、ホテルに泊まる金を浮かすため州一番の金持ちである伯父の家を訪ねるが、45歳間近の従姉のアマリアが応対に出て、伯父は病気で会えないと追い払われる。やむなくホテルに行こうとすると、通りで伯父の親友のペペと出くわし、彼の世話になる。その晩、マルコスはペペから伯父の様子を聞かされる。伯父は三年前に妻を亡くして人生に絶望し、自殺こそしなかったが2年目に塞栓症で倒れて片腕片脚が麻痺、車椅子に乗ることになるが医者の診断では余命はあと一年。それを聞いて伯父の兄の子どもたちが遺産目当てに近づく。アマリアはアメリカ人の夫ジム、娘ルセーロと一緒にラモンの家に住んでラモンの世話。銀行家アルフォンソはラモンの商売、フェルナンドはラモンの農場の管理、裁判官ヘラルドは何もできないので毎日ラモンのご機嫌うかがい。ところが一年たったいまも伯父は生きている。話しおわると、ペペはマルコスに突然ムエルダゴに来た理由を訊く。クエバノ大学の鉱山学部を出ていたマルコスはいい値で売れるブリリオという鉱物の鉱脈が近くにあるので、その採掘事業を伯父としたいと嘘をつく。翌日、アマリアが家を出た隙にマルコスはペペと一緒に伯父の家に行き、ペペにした話を繰り返して伯父を信用させ契約を結ぶ。以後、マルコスは伯父の家に住みつき、夜は医者から酒を止められている伯父が好きな酒を飲むための隠れ蓑となって一緒に酒を飲み、昼は発掘のための作業にとりかかるのだが、物語は大きく見れば次の三つの筋が絡むようにして進んでいく。@マルコスは自分が生まれた土地にある廃坑をブリリオの産地に仕上げ、州都に行って店でブリリオの見本を買ってそれを採集見本とし、採掘現場の図面をひき、その事業の経費・利潤等を算出。A遺産相続の可能性のある者が一人増えたことを心配し、従姉兄たちはあるかないかも分からないマルコスの相続分を言い値で先に買うと持ちかけるが、マルコスに断られると、みんなで仲良く山分けしようと再提案。金を手にしてチャムーラと一緒にのんびり暮らしたいマルコスはその提案に乗る。B伯父の家で暮らすうちにマルコスは美人に育ったルセーロに惹かれてある晩彼女の部屋に忍びこむがあと一歩というところで拒絶されたため、もやもやを解消するためにアマリアの部屋に入る。その後もアマリアと関係を続けるが、結局、ルセーロとも切れない仲となる……。そうこうするうちに痺れをきらしたチャムーラが伯父の家にマルコスの妻といって訪ねてくる。4月24日、マルコスは大急ぎで仕事を仕上げ、伯父に会いにいく。

  マルコスが語るこの12日間で本文は半分あまり。ところが以後、語り手がマルコスからペペに変わって、途端に調子がミステリー・タッチとなる。ペペが語る物語はラモンと自分の青春時代、ラモンの結婚、マルコスの不審な行動の調査、ラモンの死と毒殺疑惑、ラモンが生前に作成した遺言状の内容、そして、マルコスに対する二つの犯罪容疑(衣料店放火とラモン毒殺)を晴らすためのペペの知恵・機転・行動。さらにはハッピーエンドと悲劇という二重の結末。

  この小説をスネイデルをどう映画化したのか。「ぼくがどんなふうにしてその小説を生き、楽しんだかということがスクリーンに残りましたが、ぼくの個性はそこにおさまっています。でも、映画は一つの総体的な仕事であり、俳優たちが懸命に関わってくれました。(イバルグエンゴイティアは)とても愛されている作家で、ぼくたちは彼の作品を読み返し、映画という点から、『二つの犯罪』にはないものを彼の他の作品から採り入れました。みんな自分の解釈をセットに持ち込みましたが、それがぼくたちを一つにしてくれたんです。俳優たちにはずいぶん似かよった雰囲気があると思います。みんな同じ物語の中で共生しているんです。そしてそこにイバルグエンゴイティアの精神があってぼくたちを導いてくれたんです。じつに素晴らしいことでした」。原作を忠実に映画化、などというコピーがついた映画はエピソードの整理ができていない場合が多く、いくら原作が傑作であっても往々にして凡庸な作品になってしまいがちだが、スネイデルはその危険を避け、いっそう映画的と思われる前半をベースにして映画を創り、文学的と思われる後半は物語を補足するために断片的に採り入れたともいう。ともかく、「叙述されている物語を映画的に語ること、原作の登場人物に、考え方に、雰囲気に忠実であること。でも、必ずしもエピソードに忠実である必要はない。ぼくがイバルグエンゴイティアで一番好きなものの一つが作品のもつ雰囲気。深い知識、死に向ける鋭い視線、あふれるほどのユーモア感覚、いちばん嫌な登場人物でさえとっても優しく扱うほど大きな愛情、そういったものをもって彼はメキシコの現実に近づくのですが、そのアイロニカルなやり方が好きなんです」と語りうるほどイバルグエンゴイティアの作品世界を愛し、熟知する監督に撮られた結果がアリエルの作品賞となった。

(あんどう てつゆき・ラテンアメリカ文学)

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*1998年、グアナフアト州政府が主催するイバルグエンゴイティア小説賞が創設され、現在も継続している。なお、イバルグエンゴイティアの邦訳には『ライオンを殺せ』(寺尾隆吉訳、水声社、2018)がある。


(2023/12/31)




■執筆者紹介

安藤哲行(あんどう・てつゆき)

  ラテンアメリカ文学研究者。大学を退職後は、晴耕雨読、曇は翻訳の日々。
  訳書に、エルネスト・サバト『英雄たちと墓』(集英社)、カルロス・フエンテス『老いぼれグリンゴ』(河出書房新社)、レイナルド・アレナス『夜になるまえに』(国書刊行会)など多数。
  2011年に松籟社から著書『現代ラテンアメリカ文学併走』を刊行。


『現代ラテンアメリカ文学併走』

  世界を瞠目させた〈ブーム〉の作家の力作から、新世代の作家たちによる話題作・問題作に至るまで、膨大な数の小説を紹介。1990年代から2000年代にかけて生み出されたラテンアメリカ小説を知る格好のブックガイド。詳細はこちらへ。


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