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2016/12/30

ジャンルを超えて:マリアーナ・エンリケス『火の中で失くしたもの』

  ときどき編集者から、読んでもらえませんか、と頼まれて本を読むことがある。たいていは既知の作家の作品だが、今回は、マリアーナ・エンリケスという初めて耳にする作家の12篇から成る短編集『火の中で失くしたもの』(原題はLas cosas que perdimos en el fuegoで直訳すると「わたしたちが火の中で失くしたもの」)。作者紹介には「1973年、ブエノスアイレス生まれ。ジャーナリスト、パヒナ/12紙の増補版ラダール(レーダー)の副発行人、教師。長篇『降りるのは最悪』(1995)、『どうやって完全に消えるか』(2004)、短篇集『ベッドで煙草を喫う危険』(2009)、『死者たちと話すとき』(2013)、中篇『戻って来る子供たち』(2010)、旅行記『誰かがあなたの墓の上を歩く――わたしの、墓地への旅』(2013)、伝記『妹――シルビーナ・オカンポの横顔』(2014)を出版」とある。作品のタイトルのいくつかからはおどろおどろしいものを書く作家かと思わせられるのだが、予断は禁物。なぜならシルビーナ・オカンポはいわずとしれたビオイ=カサレスの妻にして高名な作家、その伝記をまとめているくらいだから。

Las cosas que perdimos en el fuego
『火の中で失くしたもの』原書
(ANAGRAMA, 2016)

  とりあえず読み始める。ところが、読み始めたらやめられない、というのは常套句だが、そう言わざるを得ない。なにしろ面白いのだから。そして読後、おおまかに言えば、幻想文学というジャンルに入るのでは、とまず思う。エルネスト・サバトが『英雄たちと墓』の中で「おかしなことだが、この国では幻想文学は極めて重要なものであり、その質も高い」と登場人物に語らせているように、アルゼンチンは幻想短編の宝庫であり、その作家としてはボルヘス、コルタサル、ビオイ=カサレスといった大御所をはじめ、枚挙に暇がない。サバトは、「いったい、何のせいなんだろうか?」と続けるが、その答えは提示しない。幻想文学と銘うったものは、現実と非現実のあわいで生起するエピソードを綴り、「終わり」といえるような終わり方をせず、あとは勝手に考えろ、と読者にふってくる。そのため、読み終わっても、すっきりした気分にさせてはくれず、もやもやが、後をひくものが残る。そしてエンリケスの作品にもそんなところがある。

  ところで、マリアーナ・エンリケスという名すら知らなかったこともあり、ネットで探ってみた。しかし、彼女の履歴についてはほとんどわからず、つけ加えられるのは、ブエノスアイレス市の南に隣接するラヌース市で育ち、小さい頃は祖母が語るコリエンテス州の伝説や幽霊の話に心を奪われた、その後、ラプラタへ、そして2001年にブエノスアイレスに居を移し、現在にいたる、ラプラタ国立大学で社会コミュニケーションの学位を取得、大学でナラティブ・ジャーナリズムを教えている、といった断片的な事項だけ。

  ただ、『火の中で失くしたもの』という本をめぐってはかなりの情報が得られた。それを使って少し紹介してみたい。この春、スペインのアナグラマ社の社主(今年で辞め、2017年からは会長になるとか)であり、高名な発行人・編集者でもあるホルヘ・エラルデはブエノスアイレスでのブックフェアーを訪れ、あちこちでインタビューを受けた。その1つで「マリアーナ・エンリケスは一つの衝撃でした。彼女のエージェントが短篇を五篇、わたしに送ってきた。すぐに残りを送ってくれ、と彼に言ったんです」と言い、また、別のところでは、「マリアーナ・エンリケスの本は、思いがけない傑作としてスペインの新聞に受け入れられ、良く売れていますが、これは名を知られていないアルゼンチン作家にとっては一つの奇跡みたいなものです」と言っている。このエラルデのお眼鏡にかなって、アナグラマ社から『火の中で失くしたもの』が出版されたのだが、同書は、スペインでベストセラーとなり、14カ国語への翻訳が決まる(現在では20カ国語ほどになっている)。そうして、いわば時の人となったエンリケスはアルゼンチン内外の様々な新聞・雑誌からインタビューを受け、また、その作品が評されることになっていく。

  アルゼンチンのラ・ナシオン紙は、「『火の中に失くしたもの』、この短篇集はアルゼンチンのホラーのプリンセスとしての彼女の地位を強化した」と書いて、作家と作品の関わりを単純化した。ただ、呆けた話だが、これを読んで、そうかアルゼンチンにも「幻想文学」だけでなく「ホラー」という細分化されたものがあるのだと、気づかされた。だが、筆者もつい使ってしまうのだが、韻文と散文から始めて、フィクションとノンフィクション、リアリズム、シュルレアリスム、魔術的リアリズム、恋愛小説、冒険小説、SF、ミステリ、幻想文学、ゴシック、ホラー、モダンホラー……といった区分はいったい何のためにあるのだろう。本を買おうという読者の便宜を図るため? 出版社の販売促進や大型書店の展示のため? さほど大きくない書店では、せいぜい日本文学と海外文学に分けて、著者のアイウエオ順にするか、出版社別にするか、そんな選択肢しかない。一般的に人はどんなもの・ことにもラベルを貼って整理しないことには気分が落ち着かないものだ。どうやら曖昧なもの・ことは嫌われるものらしいが、その曖昧さを巧みに利用して、人をいっそう不安に陥れようとするのが幻想文学ではないのか。

  閑話休題。マリアーナ・エンリケスはスペインのエル・ムンド紙のインタビューで「文学の世界ではホラーはマイナーなジャンルであると思いますか?」と訊かれて、次のように答えている。


  ええ、でも、まったく気にしていません。とても自由な、とても楽しいジャンルで、他のジャンルに入ることさえできます。わたしは『ソラリス』はホラー小説だと思うのですが、規準では、それはSFに属することになっています。明らかにホラーに属するのに、ヘンリー・ジェイムズが書いたから、『ねじの回転』を心理小説として「守っている」人がいます。ホラーのジャンルは大衆的で、その上、エンターテインメントと結びついています。そしてそのことが、とてもエリート主義的な文学観をもつ人たちにマイナーと見なされる原因となるのかもしれません。とにかく、そのジャンルに対するわたしの向き合い方は最も慣例的な規範からはかなり外れていると思います、そしてその意味で、どれほどその枠に入りうるのか分かりません。客観的に考えると、それらが「ホラーに属してる」と言われても構いませんし、不快にもなりません。でも、それがわたしのすることに対してとても明快な定義になるのかどうか、それほど自信はありません。


  また、別のインタビューでは、「あなたの書くものがホラーと形容されることをどう思いますか?」という類似の質問に対して、「それを一つのジャンルの枠にはめることはそんなに簡単ではないと思いますが、いずれにしても、そのラベルは嫌ではありません。わたしが最も賞賛する作家たちが、ヘンリー・ジェイムズから、シャーリイ・ジャクソン、そしてコルタサルをも経て、スティーブン・キングにいたるまで、ホラーを書いていますから」

マヌエル・プイグ『天使の恥部』
安藤哲行訳
発行元の白水社さんによる
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  いずれの質問者にも、正統なる文学というものがあり、それと比すればホラーはレベルが低いと思っているようなところがありそうだが、エンリケスの答えからすると、彼女は、ジャンルにこだわらない、ジャンルという整理棚に区分けすることは無意味、と考えていることが分かる。また、『レエ・ポル・グスト』(Web上の文学ページ)で彼女が挙げた五冊の愛読書を見ると、彼女の文学世界がゴシックやホラーという狭い領域に留まっていないことがはっきりする。その5冊とは、フォークナー『響きと怒り』か『八月の光』、コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、ボルヘスの全短篇、マヌエル・プイグ『天使の恥部』。

  ところで、長篇『チューリングの妄想』(2003)の邦訳(現代企画室)があるエドムンド・パス=ソルダンは『火の中で失くしたもの』を次のように評している。


『丘の屋敷』邦訳版
発行元の東京創元社さんによる
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  アルゼンチン人、マリアーナ・エンリケス(1973)の『火の中で失くしたもの』(アナグラマ社)のいくつかの短編は、『天の扉』のコルタサルを思い出させるのだが、それは、マウロとその友人マルセロがダンス・フロアーで、マウロの亡き妻セリーナがいきいきとしているのを見る、「タンゴに酔いしれているセリーナは私たちには目もくれず踊っていた。煙のせいで黄色がかってみえるライトを浴びていたが、そのせいで彼女の顔からは以前の美しさが消え、別人のような気がした」という、あの不安を与える瞬間に凝縮している。他の短編は幽霊屋敷のゴシック小説の刷新者である、『丘の屋敷』(1959)のシャーリイ・ジャクソンを、『ペット・セマタリー』(1983)のような小説で忌まわしい過去に呪縛された場所のテーマを開拓したスティーヴン・キングを思い起こさせる。ゴシック的ものと幻想的なもの、そして純然たる刺激的な恐怖のアマルガムの中で、エンリケスはきわめて独自な小説世界を作るために、賢明にも巨匠たちに寄りかかっている」


  パス=ソルダンは幻想文学、ホラーというジャンルの中で云々しているようだが、それは小説の枠組みについてのことであり、ミステリ・タッチの作品がミステリという枠に入れられないように、ホラーというジャンルには収まりきらない「きわめて独自な小説世界を作」っているということがいちばん言いたいのだろう。

  では、『火の中で失くしたもの』はどんな短篇から成り立っているのだろう。表題作は、男にアルコールをかけられて火をつけられ顔やからだに火傷を負った女性たちの話が広がり、かつての魔女狩りに見られるように火をつけられるのはいつも女、だったら自ら焼身して男の美意識を変えようとする女性たちが出始め、彼女たちを応援するグループができ……といった話。その他は、パス=ソルダンがまとめたように、アルゼンチンの伝説的人物や歴史、ブエノスアイレスの過去、個人的な心理の揺れを取り込んだもの。そしてコルタサルの『占拠された屋敷』のように、家という狭い居住空間を利用したものがいくつかある。その1つ、『アデーラの家』は次のように書き出されている。


  毎日、アデーラのことを考える。昼間、彼女の思い出――そばかす、黄ばんだ歯、きれいすぎるブロンドの髪、腕の付け根、スウェードの小さなブーツ――が浮かんでこないと、夜、夢の中に現れる。アデーラの夢はどれも違うけど、いつも雨が降っていて、いつも兄とわたしがいる。わたしたちは二人とも、黄色いレインコートを着て廃屋の前に突っ立ち、両親と小声で話す庭の警官たちを見つめている。

  わたしたちは友だちになったが、それは、彼女が場末のプリンセスだったから。彼女はイギリス風の巨大な屋敷で甘やかされていたが、ラヌース市にあるわたしたちの灰色の地区にはめ込まれたその家は、まわりからは浮いて、まるでお城のように見え、そこの住人は主人たち、そして貧弱な庭の四角いセメントの家にいるわたしたちは使用人のようだった。わたしたちは友だちになったが、それは、父親が合衆国から彼女のために持ち帰る最高の輸入玩具を持っていたから。そして、毎年、三賢人の日の直前で元旦のすぐ後の一月三日に、昼下がりの太陽の下、まるでギフト用の銀色の包装紙のような水をたたえたプールの横で、最高の誕生日パーティを催したから。そして、その地区の他の家ではまだ白黒テレビだった頃、彼女はプロジェクターを持っていて、リビングの白い壁を使って映画を見ていたから。

  でも、とりわけ、わたしたち、兄とわたしが友だちになった、そのわけはアデーラには片腕しかなかったからだった。それとも、もしかすると、片腕が足りなかったと言うほうが的確なのかもしれない。左腕が。幸い、左利きではなかった。肩から欠けていた。そこには筋肉の端切れのようなものがついた小さな肉の突起物があり、動きはしたが、何の役にも立たなかった。アデーラの両親は、生まれつきそうだった、先天性欠損症だ、と言っていた。他の子たちは彼女を怖がるか、嫌がるかしていた。彼女をあざ笑い、ばけもの、妖怪、できそこない、と呼び、サーカスで雇われる、きっと写真が医学書にのる、と言った。

  彼女は気にしなかった。義腕を使おうともしなかった。見られるのが好きで、腕の付け根を隠したことがなかった。誰かが嫌そうな目をすると、その顔に腕の付け根をこすりつけたり、すぐ横に坐って、恥ずかしい思いにさせるまで、泣き出す寸前にさせるまで、役に立たない突起物でその腕をなでることができた。

  アデーラはユニークな性格をしてる、勇敢でしっかりしてる、お手本よ、いい子、と母さんは言った。なんてうまく育てたんでしょうね、なんていいご両親なの、と繰り返し口にしていた。でも、あたしの両親は嘘をついてるの、とアデーラは言った。腕のことで。これは生まれつきじゃないの、と彼女は言った。じゃあ、どうしたの、とわたしたちは訊いた。すると彼女は自分なりの説明をした。正確に言うと、いくつかの説明を。

  ときどき彼女は、あたしの犬に襲われたの、インフィエルノ(地獄)という名の黒いドーベルマンに、と言った。ドーベルマンにはよくあることで、その犬は気が変になった、その犬種は、アデーラによると、脳のサイズに対して頭蓋骨が小さすぎる、だからいつも頭痛がし、痛みで正気をなくしたり、簡単に気がふれたりする、骨に締めつけられて脳がおかしくなる。二歳のときに襲われたの、と彼女は言った。そのときのことを彼女は思い出す。痛み、うなり声、顎が噛む音、プールの水と混じり、芝生を汚す血。彼女の父は一発で撃ち殺した。すばらしい狙いだった、なぜなら、その犬は、銃弾を受けたとき、まだ、赤ん坊のアデーラを口にくわえていたから。

  わたしの兄はその説明を信じなかった。

「じゃあ、傷跡はどこ?」

  彼女は腹を立てた。

「とってもうまく治ったの。見えないの」

「まさか。いつまでも目につくんだ」

「歯の傷跡は残らなかったの、噛まれたところのもっと上を切らなくちゃいけなかったから」

「ほんとだよ。傷跡は残ってなくちゃ。そんなふうに消えやしない」

  そして兄は、例として、腿の付け根にある盲腸の傷跡を見せた。

「あなたの場合、四流の医者が手術したから。あたしは首都でいちばんの医者」

「はいはいはい」と兄は言って、彼女を泣かせた。彼女を怒らせるのは兄だけだった。それでも二人は一度も本気で喧嘩しなかった。兄は彼女の嘘を楽しんでいた。彼女は彼女で張り合うことが好きだった。そしてわたしは聞いているだけ、そうして放課後の午後は過ぎていき、やがて兄とアデーラはホラー映画を知った、そしてすべてが永久に変わった。


  この後、「わたし」の兄とアデーラは二人でホラー映画を見ては、そのストーリーを「わたし」に話して聞かせるようになるが、あるとき、母親に連れられて兄と買い物に出かけた帰り道、母親は一軒の廃屋の前を通りかかると、急ぎ足になる。その理由を訊くと、怖いから、と言う。そこにはずっと以前から誰も住んでいず、家の芝生は焼けたように黄色で短い。兄から話を聞いたアデーラもその家に夢中になり、家のことをいろんな人に訊いたり、毎日のように見に行ったりする。やがて、家が話しかけてくるの、とアデーラが言いだす……。

  最後まで書くのは興醒めにもなるので、このあたりでやめるが、短篇ということもあり、ストーリー展開に必要なことだけを書くという簡潔な書き方で話は進む。ところが、物語は日常に非日常がかぶさって重層的になり、幻想的な雰囲気が濃くなっていく。この盛り上げ方が巧みなのは、『火の中で失くしたもの』のどの短篇についても言える。だからこそ、読みだすとやめられない、そんな体験を久しぶりにすることになった。結局、この本が、またエンリケスについて調べたことが、今年いちばんの収穫になった。『ザ・ロード』、『丘の屋敷』を読み、『嵐が丘』さえ再読することにもなったのだから。


*パス=ソルダンが言及しているコルタサルの作品は短篇集『動物寓意譚』に、また邦訳は『遠い女』(国暑刊行会)に収録されている。上記の引用もこの中の翻訳を使わせていただいた。


(2016.12.30)




■執筆者紹介

安藤哲行(あんどう・てつゆき)

  ラテンアメリカ文学研究者。大学を退職後は、晴耕雨読、曇は翻訳の日々。
  訳書に、エルネスト・サバト『英雄たちと墓』(集英社)、カルロス・フエンテス『老いぼれグリンゴ』(河出書房新社)、レイナルド・アレナス『夜になるまえに』(国書刊行会)など多数。
  2011年に松籟社から著書『現代ラテンアメリカ文学併走』を刊行。


『現代ラテンアメリカ文学併走』

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