2022/5/31
月の捕らえ方:バルガス=リョサ『フォンチートと月』
長いこと本を読んできている。さて、最初に読んだのは何だったのだろう。記憶のか細い糸をたどり続けてみると、中学時代には岩波・新潮・角川文庫を手にしていた。だがその前は、おそらく小学校の図書室や貸本屋にあった本、さらにその前はとなるとまさしく濃い霧の中。むろん絵本だったのだろうが、まったく手がかりがない。そんなとき、広松由希子「日本の絵本100年 これまでとこれから」(『芸術新潮』、2022年5月号所収)というエッセイに出会った。明治から現在にいたる絵本の歴史が実にうまく簡潔にまとめられており、へえ、なるほど、そうなんだと感心するばかりだった。『芸術新潮』のこの号は『大人も読みたい絵本』という特集になっており、いろんな絵本の写真がたくさん載っている。ただどれを見ても、これが最初という記憶を蘇らせてはくれない。子供時代の写真のあらかたが伊勢湾台風で水没したように、それまでに読んだ絵本や本の記憶も埋没してしまったようだ。
子供が生まれると、その成長に合わせて、『芸術新潮』に載せられているような絵本や児童書を買いつづけ、福音館や岩崎書店、偕成社等々から出版されるものを一緒に眺めていた。だが本はどんどんたまっていく。やがて家のスペース確保のために、ほとんどすべてをあちこちの図書館に寄贈した。わずかばかり残したはずのものは、居場所がはっきりしない。
買うことをやめても、書店にいけばときおり児童書のコーナーを眺める。そこでは置かれた本がアナーキーな雰囲気を漂わせている。棚に収められている絵本を見れば高さはバラバラ、前方に飛び出しているものもあれば、逆に奥床しく引っ込んでいるものもある。また平積みになっているものは、好き勝手に場所取りをしている。こんなにも判型があるのかと思うが、それは絵やイラストを描く人の表現方法を尊重してのことなのかもしれない。ただ、対象年齢が上がるにつれて規格の判型に近づいていく。まるで子供が社会に組み込まれていくのに合わせるかのように。
広松由希子は「日本は絵本大国のひとつです。半世紀以上前に刊行された本が版を重ねてロングセラーとなる一方で、毎年、約1000タイトルもの新刊本が出版されています」と言う。ただ、当然のことだが、さほど大きくはない近所の書店の売り場からはそれほどの数の絵本が創り出されているとは想像できない。「数字だけに振り回されると、いい絵本でも半年で絶版となってしまうようなケースが出てきます。いま市場で手に入るのは、評価の定まった古い絵本と、現在ウケている絵本に二極化されています」。やはり、売り場面積という物理的な事情で、絵本も文芸書と同じ立場に立たされているようだが、「普通に中ぐらいに売れてほしい本がなくなっていくのは残念です。絵本には、わからないからこそおもしろい、という側面もあります。たとえば5歳の時に読んで“もやっ”としていたことが、20〜30年を経て解ける。それが醍醐味であったりしますから」という嘆きには共感する。
かつて(というほども古くはないが)スペインには絵本から文芸書に導ければという期待からなのだろうが、《ぼく(わたし)の最初のXX》という5〜8才向けのシリーズがあった。XXには作家名が入る。アルトゥーロ・ペレス=ベラルデ、エンリーケ・ビラ=マタス、ハビエル・マリアス、フアン・マルセー、エドゥアルド・メンドサ、アルムデナ・グランデス、ルイス・マテオ・ディエス、そしてマリオ・バルガス=リョサといったスペインを代表するような8人の作家(バルガス=リョサはペルーとスペインという2重国籍)の名で、主に2010〜2012年に出版されており、バルガス=リョサの作品は『フォンチートと月』(2010)という絵本。
Fonchito y la luna 『フォンチートと月』
(Alfaguara, 2010)
主人公はフォンチート。彼はクラスで1番かわいい女の子、ネレイダの頬にキスしたくてたまらない。ある日、思い切って「きみの頬っぺにキスしたいんだけど。させてくれる」と尋ねる。すると「お月さまを下ろして、プレゼントしてくれるんなら、させてあげる」という返事。さてこの無理難題をフォンチートはどう解決するのか。とりあえず何日も月を眺めてあれこれ考える。そして「チーズのようにまん丸い月」が出ている夜、ふと気づく。その気づきがまさしく解決策で単純なものなのだが、ではその気づきとは何か。月に深い関心を寄せる日本人ならすぐに分かる? 幼い頃にかぐや姫を知り、長じては月見と言っては酒を飲む(ただ酒はどんな理由をつけても飲めるが)。テレビでは決まって中秋の名月が、時には三体月が映り、インスタグラムには天守閣(城)の背景に満月や三日月が浮かび上がる。また、かつては多くの子供たちが月光仮面やセーラームーンといったキャラクターに夢中になった時代があった。ただこうした環境の中に置かれた大人なら、誰もがネレイダの注文にすぐ応えられるとは言い切れないのでは。月を愛でた平安時代の貴族であれば別だが。
絵本・童話における絵、あるいはイラストのもつ役割は絶大で、作品の成否を決めてしまう。幼児はまず絵に関心を示し、気に入れば毎日同じ絵本しか見ないからだ。『フォンチートと月』の絵はマドリッドのコンプルテンセ大学芸術学部でデザインを専攻したあとイラストレーター/グラフィックデザイナーとして活躍しているマルタ・チコーテ・フイス。ここに挙げた表紙絵の他に描いているものを見ようとするなら、Marta Chicote Juizをネットで検索すればいい。なお、この『フォンチートと月』は今年(2022年)9月にハードカバーの英訳が出版される予定。
バルガス=リョサはこの作品よりも読者の対象年齢をもう少し上げた『子供たちの船』(2014)という物語も書いている。
本を開くと、マルセル・シュウォッブ『少年十字軍』からの一部がエピグラフに挙げられている。
白いミツバチの群れのように道を埋め尽くしていた。どこから来たのは知らない。とても幼い巡礼たちだった。ハシバミやカバノキで作った長い杖を手にしていた。肩には十字架をかけている。(中略)彼らはエルサレムを信じている。エルサレムは遠くにある、われらが主はもっとわれらの近くにおられると思っている。彼らはエルサレムに着くまい。だが、エルサレムが彼らのところに来るだろう。私のところに来るように。すべて聖なることの終わりは喜びの内にある。
El barco de los niños 『子供たちの船』
(Alfaguara, 2014)
毎朝とても早く、小さな公園のベンチに座って海を眺めている老人がいる。そんな光景を毎日学校に行く前に見かけるフォンチートは、ある日、意を決して、老人と同じベンチに腰をおろし、声をかける。すると老人は子供たちの船が現れるのを待っていると答える。だがフォンチートには船が見えない。「今朝は現れなかったから君には見えない。でも現れたとしても君には見えないだろうね。(略)誰もがその船を見るにふさわしい人間というわけじゃないから。君に見えるときは、君がしたことに対するご褒美をもらうようなもの。例えば、大きな犠牲を払ったとか」。よかったらその船の話をしてあげると勧められて、フォンチートは通学バスが来るまでの間、10回にわたって老人から話を聞くことになる。それは13世紀初頭の少年十字軍の話。聖地回復のためにエルサレムを目指して、ヨーロッパ各地から獣や山賊、飢えをもものともせずにマルセイユに集まった子供たちは、その地で出航まで長いこと待たされたあと何艘もの船に分乗して出航。だが船は大方が海賊に襲われたり、嵐で難破したりすることになる。老人が続けてフォンチートに語るのは、最初に出発して、そうした事態に遭遇しなかった船での出来事。ただ不思議なことに老人はまるでその場にいたかのように話をする。
12歳から15歳までの何人かの子供、船主のジャン・ドゥ・ブリューと7人の船員を乗せた船はマルセイユから出る。順調に船路をたどるものの、やがてハンセン病と思われる子供が見つかる、舵をとる最年長の船乗りが正気を失う、操舵手を失くした船は漂流、食料や水の欠乏等々、様々な苦難に出会うことになる……。絶体絶命の子供たちの運命やいかに。一方、老人は、そしてフォンチートは子供たちの船を見ることができるのか。さすがバルガス=リョサで、その語りには無駄がなく、オデュッセウスとサイレーンのエピソードや幽霊船の話をも取り込んで、先へ先へと読者にページをめくらせる。そしてストーリーの最後でフォンチートがシュウォッブの『少年十字軍』を手にすることで『子供たちの船』を読んでいた子供たちも『少年十字軍』という本に誘われることになる。
挿画はポーランドで生まれ、バルセロナ大学芸術学部で学んだあと、画家、イラストレーターとして活動しているスザンナ・セレイ Zuzanna Celej。セレイはこの作品ではバルガス=リョサのストーリーから喚起されるイメージをリアルに、またファンタスティックに描き出しているが、邦訳のあるものではフラン・ヌニョ『しあわせなときの地図』(ほるぷ出版、2020)のイラストを担当している。
ところで、『フォンチートと月』のフォンチート(アルフォンソの愛称)の父親の名はドン・リゴベルト、そして『子供たちの船』のフォンチートの父親はドン・リゴベルト、継母はドニャ・ルクレシア。となれば、二つの作品に登場するフォンチートは同一人物と言えるだろう。《ぼくの(わたしの)最初のマリオ・バルガス=リョサ》と銘打たれた『フォンチートと月』を読んだ子は、フォンチートに導かれて、果たして成長とともに『子供たちの船』、『継母礼讃』(1988)、『ドン・リゴベルトの手帖』(1997)へと読み進んでいくことになるのだろうか。
(2022.5.31)
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