2015/12/30
書店での本との出会い:ロドリーゴ・アスブン『愛情』
かつて、ニューヨークはソーホー、西14丁目にLibrería Lectorum(レクトルム)という書店があった。ニューヨークにおけるスペイン語圏の文化を知る拠点とも言えたが、残念ながら2007年9月に47年の歴史に幕を降ろし、インターネットによる販売に切り替わった。それ以後、ニューヨークで実際に手にとって見られる本が激減した。そして今年(2015年)、昨年よりさらに減っていた。
11月半ば過ぎ、まだ紅葉の残るニューヨークに出かけた。昨年の3月にも行ったのだが、そのときには、定宿にしている西57丁目のホテルから近く、5番街と6番街の間にリッツォーリRizzoliはあった。1階には美術、デザイン、インテリア、建築、写真等々幅広い芸術関係の書籍が豪華本を含めて所狭しと置かれ、狭い階段を上がった2階にはCDが並べられ、その奥の突き当たりの部屋にはスペイン語の小説や詩集が棚に入っていた。この書店にいつも出かけたのは、映画『恋におちて』の撮影現場を訪ねたいという映画ファンの思いからではなく、単にスペイン語の小説を眺めるというのが目的だったのだが、今は工事現場と化している。リッツォーリは昨年4月、西26丁目とブロードウェーが交差するあたりに移転。前の店舗は本にあふれて手狭な感じ、いかにも昔ながらの書店という趣があったが、新たな店舗は間口が広く、奥行きもあり、そのうえ1フロアーということもあって、本がゆったり、整然と並べられている、というよりは展示されていると言ったほうがいいのかもしれない。そして無念なことに、スペイン語の本はこの移転に伴って扱わなくなり、英語を別にすれば、イタリア語の本がわずかにあるだけだった。
がっかりしながらストランドStrandに向かう。古書をも扱い、本屋と言うにぴったりの雰囲気で、本が台に平積みされたり、書棚にぎっしり詰まっていたりする。中2階があるほど天井が高い。推理小説、SFの棚を別にすれば、フィクションは奥にまとめられ、著者別に並べられて壁をおおっている。その棚はいったいいくつあるのか。どれも天井まで届き、高い脚立を使わなければ上段の本は取れない。その上段を見上げながら、また、しゃがみ込んで、最下段を見ていくと、英語に翻訳されたスペイン語圏の作家の本が結構たくさんある。たぶんスペイン語圏の作家だと思われるような、知らない作家の作品があるたび、なんだか気になり、手にとって眺め、その名をメモにとる。
Strand店内
(2015年11月に筆者撮影)
ストランドを出て、北に向かうとすぐにユニオン・スクエア。近郊の農家や牧場がテントを張って産品を売るグリーンマーケットが開かれているが、クリスマス近いこともあってホリデイ・マーケットと称して手作りの物を売る店も集まっている。そのにぎわいを見ながら、北側まで行くと、バーンズ&ノーブルBarnes & Nobleの赤っぽい6階建ての古風な建物が目につく。バーンズは行くたびに展示・陳列が変わるが、今では1階は書店と言うよりは、本も置いている、しゃれた雑貨店といった感じ。このユニオン・スクエアのバーンズに出かけるのはスペイン語の本を並べた棚が2階にあったからだが、今年、その本棚は消え、子供の玩具売り場が拡大している。スペイン語の本はどこ、と訊けば、4階に移動したとのこと。行ってみると、棚の数からすれば本は以前ほどもないように見える。まあ、それでもあるだけましか、と思いながら本を眺めていく。AMAZONは便利でよく利用するが、知らない作家、面白そうな本を見つけるには不向き。それに本に出くわすというチャンスはほとんどない。
やはり実物が並んでいる本屋は楽しい。そうして何冊かの本と出会った。その1冊が、ペンギン・ランダムハウスが出しているロドリーゴ・アスブン『愛情』。未知の作家だったため表紙の折り返しを見ると、「ロドリーゴ・アスブン(コチャバンバ、1981)は、たちまちのうちに、彼の世代の最も興味深いラテンアメリカの作家の1人という地位を固めた。短篇集『5』、『最も幸せな日々』、『4』、短篇選集『9』、そして小説『肉体の場所』を発表しているが、この小説でサンタ・クルス・デ・ラ・シエラ文学賞を受賞。(略)2010年には雑誌『グランタGranta』が22名の最も優れた若いスペイン語作家の1人として選出した」という紹介文がある。次いで裏表紙の折り返しを見ると、エドムンド・パス=ソルダンの「ロドリーゴ・アスブン。この名を覚えてください」、また、アメリカの小説家ジョナサン・サフラン・フォアの「彼はいい作家ではない。偉大な作家の1人だ」という褒め言葉。ボリビアの作家と言えば、現代作家の中ではかつて掌編を訳したことのある、そして今では長篇『チューリングの妄想』(現代企画室)が邦訳されている、先のパス=ソルダン(同じコチャバンバ生まれ)しか知らないが、そのパス=ソルダンが、覚えておけ、と言う34歳の若い作家がどんなものを書くのか、それが気になって、また、80年代生まれの作家は読んだことがないこともあり、『愛情』を購入し、読み始める。
『愛情』原書 Los afectos
(Random House, 2015)
『愛情』は今年(2015年)5月に出版された140ページの中篇小説。レニ・リーフェンシュタールのカメラマンであったハンスは第2次大戦後、妻と三人の娘、モニカ、ハイディ、トリクシィを連れてミュンヘンからボリビアのラ・パスに移住する。ドキュメンタリスト、冒険家として働くが、ヒマラヤの8126メートルの山、ナンガ=パルバットから帰った後、上の二人の娘を連れて、アマゾンの密林にあると言われるインカ帝国の失われた町パイティティの探索に出かける。ミニバスで行けなくなると、12頭のラバの背に撮影道具や食糧などを載せて、5000メートルを越す厳しい寒さのアンデス山脈を越える。そんな遠征の後半には、ラ・パスに残してきた妻のアウレリアも合流するが、「あたしも母さんも父さんがどんなタイプの構図を探しているか知ってた。あたしはカメラやレンズの扱い方を心得てて、神経質にはなってなかったけど、母さんは落ちつかなかった。問題は決定的なシーン、父さんが自分のドキュメンタリーのために何カ月も探し続けていた華々しい終わり方だった。でもそれはわたしたちが作るシーンそのもののためというだけじゃない。地表を取り除いて、もっと先になって取りかかる必要のある本当の考古学的探求、それにそなえて準備をしておくためでもあるんだ、そう父さんは言った」。そんなハンスはドキュメンタリーを締めくくるため密林に火を放ち、「すぐに炎は黒い煙を放ちはじめ、獣たちの悲嘆にくれる甲高い叫び声が上がった。オウムの一団が飛び上がり、数羽のハゲワシが姿を現した。空に円を描き、火に突っ込み、何かの動物をわしづかみにしてすぐ現れる。すべてが混乱し、恐ろしい光景となっていた」、そんなシーンを撮る。この旅の後、家族はそれぞれの道を歩み始める。もともと気分の起伏が激しかった長女のモニカは母親が働いていた輸入業者の店の息子で、自分の父親と同名のハンスと結婚。だがそのハンスとの生活はすぐに破綻。それでも、高校時代からの友人と話し合い、義父母やドイツ人グループの助力・支援を得て慈善施設を造り、運営する。「きみは、ほとんどきみのことを知らないおぼっちゃんと結婚した美しい女の子。きみは家のない主婦、冷淡な妻、学校の友だちと慈善事業に没頭し、罪と退屈、夫の頻繁な出張(直接鉱山に行くのか、それとも彼には秘密の生活、不能と無気力を説明するような生活があるのか?)から逃れようとする女性」。そうした状況にあるモニカの前に、家を離れていた義弟ラインハルトが現れる。左翼思想に傾斜する彼と知り合い、その政治活動に関わるうち、インティという活動家と出会い、その運動にのめり込み、支援を求めてヨーロッパまで出かけるようになるが、ゲバラを惨殺した現ボリビア領事を暗殺し、CIAにすらマークされるまでになる。次女のハイディは最初の遠征で知り合ったルディと結婚。2人はドイツに戻ってスポーツ用品店を開き、店舗を増やすほどに成功するが、ルディはそうした安定した日常に物足りなさを感じ、やがてケニヤ人女性と暮らすようになる。ハイディは4人の子を育てながら事業を切りまわし、父親やトリクシィに資金援助をしさえする。トリクシィは母親の死後も一人ラ・パスの家で暮らしてゲーテ学院などでドイツ語を教え続けるが、やがてゲリラ活動をしているというモニカの噂のせいでくびになる。それでもドイツ語の個人レッスンを続けるが、結局はハイディの勧めでミュンヘンに戻ろうと考える。一方、不在気味の父親のハンスはヨーロッパ滞在から戻ると、コンセプシオンにドロローサ(「悲しみの聖母」の意)」という名の農場を開き、軌道に乗せる。そしてラテンアメリカ縦断のドキュメンタリーを撮るために、ラ・パスで暮らしていたトリクシィを連れて出かけるが、出発して3週間後、川を渡っているとき事故が起き、それまでに撮影したものをすべて失くして旅を断念。以後、撮影はむろん写真を撮ることすらしなくなるが、農場経営もモニカの噂のせいで立ちいかなくなる……。
おおまかに言えば、ハンス・エルトルという撮影技師とその家族は、ドイツからボリビアに来たあと、いかに生きたかというのが、どうやら物語のテーマらしい。「らしい」と書いたのは、物語の語り手がコロコロ変わり、それぞれが見聞きしたことを断片的にしか語らないからだ。
物語が始まる前に、アスブンは「歴史的事実や人物から着想を得てはいるが、これはフィクションである。従って、エルトル一家の誰かの、また彼らとともに小説に現れる人物の信頼に足る物語であろうとはしていない」と記している。
レニ・リーフェンシュタール『オリンピア』
第1部『民族の祭典』
では歴史的な人物であるハンス・エルトルとはいったい何者なのか。1908年、ミュンヘンで生まれ、ドイツではヒトラーや北アフリカ戦線の「砂漠の狐」、ロンメルの写真を撮り、レニ・リーフェンシュタールが監督したベルリン・オリンピックの記録『オリンピア』(1938)のメイン・カメラマンを務め、「ヒトラーのカメラマン」と呼ばれ、レニの愛人と噂された。と言えば、なんだか分かったような気になるが、2008年9月に、スペインの『エル・パイス』新聞、そして2015年4月にBBCが発信した娘のベアトリス(『愛情』ではトリクシィと愛称で呼ばれている)へのインタビュー記事等と史実とをあわせて、もう少しこのエルトル一家のボリビアでの動きをまとめてみよう。
登山家でもあるハンスは1948年にレアル山脈への一連の遠征のためにボリビアを訪れる。1953年には、『オリンピア』を撮っているときに知り合った妻のアウレリアと3人の娘、モニカ、ハイディ、ベアトリスを連れてボリビアに移住し、同年、ドキュメンタリー「ナンガ・パルバット」を撮る。1953年にアウレリアが死去。ハンスは娘たちをラ・パスの親戚に預けて旅に出かけ『パイティティ』(1955)を、そしてモニカを出演させて『イト―イト』(1958)という長篇映画を撮る。60年代半ば、『強い南風』を撮りに出かけるが、コンセプシオン近くで川を渡っているとき木造の橋が崩壊し、車がフィルムもろとも落下。ハンスは電報でドイツの製作会社に事故を知らせるが、信じてもらえず、遠征費用を返済しなければならなくなる。以後、撮影しなくなり、まもなくラ・パスから南東1105kmのところにある、売りに出ていた「ラ・ドロリーダ(「悲しむ女」の意)」という農園を買い、学生であった娘たちをラ・パスに残し、18匹の猫、15匹の犬、1匹の猿とともに移住し、2000年10月23日、92歳で死去。ドイツに帰るつもりはなかったが、生前、自分の墓にかけるからドイツの土を送ってほしいとハイディに頼む。その土は死の10日前に届く。そして、生前愛用していたオリーブ・グリーンのドイツの軍服を着た姿で、自らの農場に埋葬される。
父親の気性を最も受け継いでいる長女のモニカは結婚が破綻した後、1969年にゲバラの信奉者グループ、極左のELN(ボリビア民族解放軍)に加わり、1967年にゲバラの両手を切り落とすよう命じた諜報部長で1971年にはハンブルクのボリビア領事を務めていたロベルト・キンタニージャ・ペレイラを射殺。この暗殺がもとでCIAにも追われる身となったモニカは1973年5月、エルトル家の友人でもあった元SSの高官に密告されて、ラ・パスの街路で殺害される。その知らせを聞いてもハンスは「殺されてよかった。死んでるんだ」とほっとする。それは娘が拷問を受けるのを心配していたからだ、とベアトリスは言うが、ハンスはその数年前、農園をゲリラの訓練所に変えたがっていたモニカを追いだしている。2015年、ハイディは76歳になり、ドイツで暮らしている。ベアトリスはラ・パスで結婚し、子供をもうけるものの離婚。だが、孫にも恵まれた70歳の彼女は、「父は単にカメラマン、映画人でした。ナチスではありませんでした。カメラマンとしてロンメルの命に従っていましたが、ヒトラーと『オリンピア』を作ったのはたまたまのことでした」と父親を擁護する。
こうして小説のプロットと事実を突き合わせてみると、『愛情』は歴史的事実から乖離していないことが分かる。では当然のことながら、ノンフィクションではないのかという疑問が生まれる。だが、アスブンは先にも記したが、フィクションと断言している。その自信はおそらく物語の構成からくるものだろう。1人称、あるいは3人称を用いて長大な小説にすることもできたはずだが、削りに削って半分ほどの長さにした、とアスブンは言う。半分になっても長篇となりうる骨格を備えているにもかかわらず、なぜこんな、まるでスケッチのようなものになったのか。
『愛情』を構成する物語は1人の人物によって語られるわけではない。登場人物たちが思いだす家族や友人たちの言葉、会話やつぶやき、そしていわゆる物語の語り手が登場人物に向ける言葉から成っており、時として、誰が語っているのか、ふと分からなくなることがある。そのせいか、読んでいるうちに、多くの疑問が生まれもする。ハンス・エルトルはなぜドイツを離れたのか? もしかしたら彼はナチスではなかったのか? 13歳のトリクシィに喫煙を教え、ボリビアに来てまもなく癌で死ぬ母親、アウレリアについてほとんど書かれないのはなぜか? ボリビア革命、ゲバラ暗殺、鉱山ストライキ、反政府テロ、等々物語の背景となる様々な事件がただモニカの行動の大まかな要因、あるいは時間的な指標としてしか書かれていないのはなぜか? 伝説の都市、パイティティを探しに出かける意味は何か? なぜハンスはドイツに帰らずボリビアに居続けたのか? こうした疑問にまったく答えていないため、読者は誰が語っているのか、また、エピソードの年号がほとんど記されていないため、どのエピソードがどこにくるのか、読者は自分で物語を構成し直して読んでいかなくてはならない。ということは、もしかしたら作者は、読者に想像力、あるいは書かれていない部分を書く創造力を発揮するよう仕向けているのではないのか。
つまり、アスブンは、エルトル一家の、とりわけハンスとモニカのたどった波乱万丈の人生における事実は事実として押さえておいて、あくまでもフィクションとして再創造し、あとは読者の自由にまかせる。そのための仕掛けとしてポリフォニックな構成を用い、現実の生の人物ではない登場人物たちの声を響かせる、そうすることで、作品を歴史的事実に縛られるノンフィクションとは違うものとする。話し言葉は話したとたんに消えていく、その軽みをアスブンはうまく利用して作品を仕上げているとも言いうる。
アスブンは『愛情』というタイトルをなぜつけたのか。エルトル家の家族の物語でありながら、夫婦、親娘、娘同志の間の心の交流や相手を思いやるシーンはほとんど描かれていない。ベアトリスは先のインタビューで次のように語っている。「わたしたちにとって本当に父親ではありませんでした。とっても不公平で、まったく聞く耳をもってませんでした。モニカだけを愛してたんです。わたしの祖母は彼に愛情を示しませんでした。わたしの父は強姦の産物でした。わたしたちはずっと後になってそれを知ったのですが、それはいつまでも父に大きな影響を与えました」。この言葉に呼応させたわけでもあるまいが、『愛情』では、ハンスは家族には理解のできない、不在の父、あるいは遠くに眺めるべき存在とし描かれる。そんなハンスとお気に入りの娘であるモニカ、この2人が物語の中心になるのは当然かもしれないが、両者の間の愛情を読みとるのは難しく、想像するしかない。ただ、モニカのことを気にし続けるトリクシィには、物語の終わり間近で、「記憶は安全な場所っていうのは確かじゃない。そこでも物事は姿かたちをすっかり変え、見えなくなる。そこでもあたしたちはいちばん愛した人たちから遠ざかってしまう」と語らせ、彼女は家族を深く愛したことがある、あるいは愛したことがあると思っているということを読者にわからせるのだが。
ボリビア人の監督フアン・カルロス・バルディビアはエルトル一家について調査していたが、『愛情』を読み、その素晴らしさに自分の調査をやめ、『愛情』で映画の脚本を書くことを決心する。確かにこの作品は、少し手を加えるだけでいい映画になりそうでもあるが、バルディビアの発言を知ったアスボンは、健康に良くないから脚本には関わりたくない、と言い、「映画の切符を買って、フアン・カルロスの映画を見る、違うものとして見てみたい。彼が本に忠実であってほしいとは全然思っていないし、忠実すぎると、惨憺たる映画になる。彼は本を裏切らなくちゃいけない」と続ける。『愛情』の前文として置いた言葉は、こんなアスブンの立ち位置をも表したものでもあるのだろう。
それにしても、見知らぬ本と出会い、読んでよかったと思えるのは、無二の愉しみである。だがストランドにしろバーンズにしろ、ネット販売をしているし、そのカタログには電子書籍も載っている。次にニューヨークに行くときにはスペイン語の本はバーンズからも消えるかも知れない。本を手に取るにはマンハッタンを離れてクイーンズにあるという本屋に出かけなくてはならなくなるのかも……。
(2015.12.30)
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