2015/11/15
風刺の刺の向かうところ:フアン・ガブリエル・バスケス『評判』
本は買っても積読状態にあった作家がいつのまにか著名になっていることがある。その1人がコロンビアはボゴタ生まれのフアン・ガブリエル・バスケス(1973- )。英訳はすでに出ているが、日本でももうすぐ『情報提供者』(2004)、『コスタグアナ秘史』(2007)そして『物が落ちるときの音』(2011)の3作が翻訳紹介される。この3作の紹介についてはそれぞれの翻訳者に任せるとして、ここでは、「これはボゴタで書いたボゴタに関するわたしの最初の小説です」と作者自身が言う中篇『評判』(2013)を取り上げたい。
この作品はバスケスが小さな頃から本を眺め、ときおり父親がその本に収められた絵を解説してくれたおかげで長年抱くことになった政治風刺画家リカルド・レンドン(1894-1931)に対する関心から生まれたとのこと。ただ、物語の開始早々にその名が登場し、彼に対する感慨が述べられるものの、1931年に自死したレンドンが主人公になるわけではない。その役を引き受けるのは、彼の後継者ともいうべき存在、ハビエル・マジャリーノ。むろん創造された人物だが、「彼の政治風刺漫画は三十年代が始まるとレンドンが体現していたものに彼を変えてしまった。つまり、国の半数にとっては倫理上の権威、もう半数にとってはナンバーワンの社会の敵、そして全員にとっては一つの法を廃止させ、判事の裁決を揺るがし、市長を倒し、あるいは省庁の安定性を大きく脅かしうる人物に。そしてそのための唯一の武器は紙と墨だった」というコロンビア社会に大きな影響を与える存在。そのマジャリーノが永年の業績に対して、コロン劇場で政府から顕彰される日から物語は始まる。式場で「パストラーナ大統領がどのような人か、そう尋ねられれば、私の脳裏に浮かぶイメージは写真ではなく、マエストロ・マジャリーノの絵です。多くの人に対する私の概念は彼が描いたものであり、私が目にしたものではありません。おそらく、いいえ、きっとここにおられる多くの人も同じだと思います」と大臣は語り、そしてフィルムが映されて、マジャリーノという人物、その業績が聴衆に知らしめられていく。そうした紹介の後、マジャリーノはスピーチをする。
『評判』原書 Las reputaciones
(Alfaguara, 2013)
四十年、そして一万以上の風刺画。一つ白状させていただきたい。つまり、いまだにわたしは何も理解できない。もしくはおそらく、物事はそんなに変わっていない。この四十年で、今思いついたのですが、変わらなかったものが少なくとも二つあります。一つは、わたしたちが気になるもの、そして二つ目はわたしたちを笑わせるもの。それは四十年前と同じ、同じであり続け、この先の四十年も同じであり続けるかもしれない。良いカリカチュアは時と、現代と特別な関係があります。良いカリカチュアは人物の不変の特徴を探し、発見する。つまり、絶対に変わらないものを、そのままでいて、わたしたちが永年見なかった人が誰だと分からせてくれるものを。千年たっても、トニー・ブレアは大きな耳であり続け、トゥルバイは蝶ネクタイをつけ続けるでしょう。(略)偉大な風刺画家たちは誰の拍手も期待しないし、それを得るために描きはしません。困らせるために、わずらわせるために、ののしられるために描くのです。わたしはののしられました。脅されました。歓迎されざる人物(ペルソナ・ノン・グラータ)であると宣告されました。レストランに入るのを禁じられました。追放されたのです。そしてわたしが常に言ってきた唯一のこと、苦情や攻撃に対する唯一の答えは、カリカチュアは現実を誇張しうるが、創りだすことはできないということ。ゆがめることはできるが、絶対に嘘はつけない。
そしてその夜のカクテルパーティで、サインを求めて本を差し出したサマンタ・レアルという30代の女性に、翌日の午後3時から自宅でインタビューを受けることを了承する。サマンタは約束通り彼の家にやってきてインタビューめいたものを始める。だが、彼女は彼の仕事場の壁に掛かる、ドーミエが描いたルイ=フィリップの絵をじっと見つめた後、自分が来た本当の理由を、自分が何者かを明かし、彼の家を訪れたのは、コロン劇場で映写されたドーミエの絵を昔、このマジャリーノの家で見た気がする、つまり自分は彼の家に来たことがある、それを確かめたくてジャーナリストと偽ったのだと言う。だが絵は覚えているが、彼の自宅で何があったのか、彼女にはそのときの記憶がない。そんな彼女の話からマジャリーノは28年前の出来事を思い出す。1982年7月、妻と別れたマジャリーノはボゴタの街中での生活が嫌になり、丘陵地にある今の家に引っ越し、お披露目のパーティを開く。新聞社の者たちや友人たちが集まっているが、そこに、招いてもいない国会議員のクエジャールがやってきて、自分のことを悪く描かないでくれと懇願したりする。やがてマジャリーノの7歳の娘ベアトリスとその友人サマンタは酒に酔って気を失い、医者を呼ぶという騒ぎがもちあがる。2人をいっしょに2階の部屋に寝かせた後、マジャリーノは訪問客たちの相手をし始める。すると知らせを聞いたサマンタの父親がやってきて、娘のいる2階にあわてて上がっていく。すぐに轟くような大きな叫び声。そして、父親は「おれの娘に何をした?(略)おまえの手のにおいをかがせろ!」と怒鳴り散らしながらクエジャールを追って降りてくる。クエジャールは帰ったものと思っていたマジャリーノだが、サマンタを抱きかかえて父親が車に乗せるのを見て、何があったのか推察する。そして、「アドルフォ・クエジャール議員――少女たちを近寄らせてくれ」という言葉をつけたカリカチュアを描き、新聞に載せる。それがやがてクエジャールを、そしてその家族を破滅させることになる。だが、当時のこの記憶がよみがえったことで、マジャリーノはそのカリカチュアが本当に事件の真相を伝えていたのかと疑い、不安になる。つまり、マジャリーノは、コロン劇場でのスピーチで口にした「カリカチュアは現実を誇張しうるが、創りだすことはできないということ。ゆがめることはできるが、絶対に嘘はつけない」という言葉に背いたことがなかったのかどうか……。
ふと気づくと、日本の新聞から1コマ漫画が消えている(とはいえ、まだ載せている新聞があるかもしれないが)。むろんマジャリーノほどの力はなかったが、政治・社会を風刺して、ニヤッと笑わせてくれたものだった。だが、なぜなくなったのだろう。描ける人がいなくなったのか、それとも編集部が無用と決めつけたのか。いや、毎朝、新聞を広げてそうした風刺画を楽しみにする読者がいなくなったからなのだろう。ネットや情報端末機器が発達した現在、風刺ではなく、直截的な中傷や嘲笑、悪意が幅をきかせ、何気なく書かれた言葉さえもが人を傷つけ、最悪の場合には、死に追いやることもある。それがニュースとなって新聞に載る。
ところで、そうした悲惨な事件に限らず、新聞はどこまで真実を伝えうるのか。1つの事実に記者(もしくは新聞社)は自分の思いを絡めたものをこれが真実とでもいうかのように読者に提示する。ところが新聞を比較して読めば、とりわけ政治的なことになると、それぞれの新聞社の立場で意見がわかれていることがわかる。むろん、こうもああも考えられると記者・論者は思うのだろうが、それを並べ立てただけでは記事にならないからだ。では何を根拠にして1つを選ぶのだろう。ただ一般家庭では購読するのはたいてい1紙であり、危ういことだが、読者はその記事(新聞)の論調に引きずられて自分の意見としてまとめてしまいかねない。つまりは受動的。そうして世論は創りだされる。マジャリーノの風刺画は1コマというスペースしかとらないとはいえ、言いたいことが一瞬で読者の目に飛び込み理解されうるものであり直截的である。それは記事のヘッドラインにも似ている。そうしたものに読者が踊らされるとすれば、風刺画、あるいは記事を書く者、つまりは発信者の責任はどれほど大きなものか。そして発信者は常にその責任をはっきり自覚しなければならないのだが、果たして不断に問いなおしていられるものだろうか。
この発信者の責任ということに加えて、『評判』は過去と現在の関わりについて問いかける。物語の冒頭でマジャリーノは、靴磨きに79年前に死んだレンドンのことを訊くが、知らないと言われる。そうして自分もやがては忘れ去られる運命にあることを知る。絶えず、「今、ここ」という座標で生きるわたしたちにとって未来は予想であり、過去は記憶である。だが人は一瞬一瞬のできごとをすべてを覚えているわけではないために、現在にいたるまでの過去は、いつのまにか修正され、創りかえられていく。実に多くのことを忘れるものだが、忘れるわけではなく、思い出せないだけだとも言われる。ところがそんな記憶の底にあるものがふとしたことでよみがえる。過去には思い出さないほうが、知らないほうがいい過去もある。葬られた過去をむりやりよみがえらせて現在に対峙させるという大胆、無茶なことをすればどうなるのか。ましてやそれが他人によってなされるとすれば。いずれにせよ、過去の自分と今の自分がつながりはすれ、その後の状況はどうなるのか計り知れない。それが良いことなのか、そうすべきであったことなのか。マジャリーノにとってはサマンタという、いわば現在への過去の闖入が現在を揺さぶり、存在の意味を問う。まさしく、彼がコロン劇場で述べたように、「人生は最良の風刺画家です。人生はわたしたち自身のカリカチュアをもたらす」ことになる。
『物が落ちるときの音』原書 El ruido de las cosas al caer
(Alfaguara, 2011)
バスケスはこの『評判』という中篇を書くにあたって、ヘンリー・ジェイムズの中篇、ソール・ベローの『その日をつかめ』、フィリップ・ロスの『エブリマン』が書き方の導きになったが、「とりわけ影響を受けたのはヘンリー・ジェイムズの中篇小説の詩学でした。曖昧さに対する熱狂的な擁護が」と言う。この作品は第1回バルガス=リョサ小説賞の最終候補3作のうちに残る。残念ながらそれは受賞しなかったが、2014年、候補とするには最低3人のアカデミー会員の支持が必要とされる、そんな12の候補作の中から、11回目のスペイン王立アカデミー賞を受賞。
これまで『情報提供者』や『コスタグアナ秘史』も文学賞を受賞したり、最終候補に残ったりしているが、バスケスの名を押し上げたのは、やはり『物が落ちるときの音』であり、同作は2011年にスペイン語圏に大きな影響をもたらすスペインのアルファグアラ賞を受賞、その翻訳は、2013年にイタリアのグレゴール・フォン・レッゾーリ賞、2014年にはアイルランドの国際IMPACダブリン文学賞を受賞。次々に賞をとるからというわけではないが、それでもそれにふさわしい筆力をそなえたストーリー・テラーであるのは疑いない。また、今年11月、新作『廃墟の形』を出したが、残念ながら未入手であるため、550ページにおよぶこの長篇についてはまたの機会に。
(2015.11.15)
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