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2016/10/9

小説とシナリオ:マヌエル・プイグ『天使の恥部』

  単行本から文庫本になる際に、単に誤植が直されるだけでなく、本文が書き換えられることがある。そんな断りが本文の後にあると、その文庫を買って読み返そうか、と思ったりする。単行本の改訂版というものが出たときもそう。著者は何を考えて書き換えるのだろう。そういえば、メキシコの詩人ホセ・エミリオ・パチェーコが何か言っていたはずと思い、調べてみると、『ユリイカ』(1995年5月号)に「プロフィール、湖の詩人」というタイトルでパチェーコについて書いた拙文の中に、次のような彼の言葉を引用していた。「書くことは果てしない物語であり、シーシュポスの仕事である。ヴァレリーは、終了した作品はない、放棄した作品があるだけだ、と正鵠を得た言い方をしている。こうした詩のいくつかを、とりわけ二〇歳以前に書いた詩を直すとき、基本的には一部削除することからくる変化だが、その変化がもとで、もとの詩が変質するとは思わない。詩が言っていることと過去に言おうとしたことのあいだの距離を縮めているのだと思う。誰でも自分の作品に対して、そして自分の作品の読者になるかもしれない人に対して最小限の責任があるとするなら、発表されたものであれ未発表のものであれ、自分のテキストを、達成不可能な模範を目指して進行中の草稿と見なすはず。書き直すことは圧倒的な不完全さに降伏するのを拒否することである」

『天使の恥部』国書刊行会版
(安藤哲行 訳, 1989)

  自作ではないものの、筆者も数少ない翻訳の版が変わるときは、このパチェーコのような気分になることがある。今度、かつて国書刊行会から出ていた『天使の恥部』が白水社のUブックスに移ることになり(来年1月上旬出版予定)、1989年の拙訳を読み始めたとたん、やはり訳し直そうと思った。四半世紀あまり前の文が、どうにも今の筆者の言葉のリズムに合わないからだ。ただ原作のタイトルPubis angelicalのpubisは解剖学の用語で「恥骨」、従って『天使の恥骨』というタイトルが直訳になり、物語中で使われている個所では「恥丘」くらいが妥当なのだが、前回は邦題が決められていたし、今回はすでに『天使の恥部』で定着しているため、あえて直さないことにした。このタイトル以外は、全面的に改訳した。また、解説は生前のプイグの他の作品の案内にもなるので、そのまま使いたいと言う担当者の意向で、若干手直しし(『赤い唇』『南国に日は落ちて』の邦訳が出たため、両書からの引用はその訳に差し替えた)、没後出版された作品の紹介文をいくつか加えた。

  この、紹介文を書くという作業の中で『天使の恥部』のシナリオを読むことになった。プイグは映画監督あるいは脚本家になろうとしてイタリアに渡ったが、結局作家に転向。おかげで、現在、わたしたちはいずれをとっても面白い8作の長篇を読むことができるのだが、ただ、プイグは映画界からきっぱり足を洗ったわけではなく、さまざまなシナリオを書いている。そうしたシナリオのうち、『熱帯の七つの罪』というタイトルの下、表題作、『ハリウッド化粧品の無料サンプル』そして『天使の恥部』の3つを収録したものが2004年に出版された。ここでは小説『天使の恥部』とそのシナリオを比較検討してみたい。


Pubis angelicalái
『天使の恥部』原書
(Six Barral, 1979)

  まず、『天使の恥部』がどんな作品だったか、簡単に記しておこう。この作品は3つの物語から成り立つ。@「世界一美しい女性」と喧伝された女優が億万長者の武器製造業者と結婚するが、彼は女優を独占したいため、体良く幽閉。彼女は召使に変装して屋敷に入っていたソ連のスパイ、テア(やがて、変装をやめ男性に戻ってテオ)の手引きで脱出を図り、ハリウッドに渡る……。A地軸が狂って、大都市が水没してしまった未来で、男性の性的欲求を満たす公職に就いているW218は隣国(実は彼女の故国)から来た男性LKJSに惹かれ、国を棄て、彼と生きようとする……。Bアナは、上昇志向の強いフィトと結婚、女の子クラリータを産むが、子育てがうまくいかず、乳母のピラールに任せる。やがて結婚生活は破綻し、彼女は投獄された人間のために働く弁護士のポッシと不倫関係を続ける。あるとき、自分の勤め先であるコロン劇場に来た外国人歌手の希望を聞いたことで牧場主のアレハンドロと知り合い、彼の執拗な押しにまけて付き合うが、結婚という段になって拒否。もともと嫌悪していたが、彼が極右で政権にも大きな影響力をもち、彼女だけでなく、母親に対しても圧力をかけていることを知り、母親と娘をアルゼンチンに残し、逃げるようにしてメキシコに来るものの、癌の治療のために入院。そこに、ポッシがアレハンドロ誘拐の助力を求めに来る……。全体の物語の展開のさせ方を見てみると、人の考え(心)が読めると噂される女性に忍び寄る魔の手というサスペンス・タッチで描かれる@Aは、@が終わるとAに移る。そして作品全体の基盤となるBはアナとポッシ、アナと友人のベアトリスの会話、アナの日記で構成されるもの、そこに@Aの物語がときおり挿入されたりする。ただ、これほどきれいに整理されるわけではなく、@のエピソードがAにも出てきたり、@AがBで言及されたりする。というのも、@Aの物語は、Bでアナが夢に見るもの、あるいは無意識下で描いているものとなっているからだ。

  プイグはこの小説のシナリオを書き、1982年、アルゼンチンの監督ラウル・デ・ラ・トーレに渡す。だが、できあがった映画はプイグの気に入るものではなかった。映画を見ていないので、この点についての判断はさておくが、シナリオが軽率に書き換えられた、とプイグは非難している。では、オリジナルのシナリオはどのようなものだったのか。シナリオ集『熱帯の七つの罪』の編者は「ひどく使い古したリボンを使ってマヌエル・プイグがタイプ打ちしたものを判読して、タイプ打ち」したという。オリジナルのタイプ原稿の印字の薄さが目に浮かぶが、ところどころ、?と思わせられるような箇所がある。

Los 7 pecados tropicales
『熱帯の7つの罪』原書
(el cuenco de plata, 2004)

  そうしたものに目をつむって読んでいくと、小説との違いがあちこちあることに気づく。たとえば、登場人物の名前の変化。@の主人公は「美女」としか形容されず、登場人物としては「女優」ではなく「女性」、テオは名前がなく、最初変装して屋敷に潜り込んでいるときは「老人」、宮殿でのパーティーの後は「将校」。AのW218は名前こそ出るが、「若い女性」、そしてLKJSは「紳士」。ただ、まずはJS44という名で紹介されているのに、W218に宛てて飛行機の中に残すメモにはLKJSという署名がある。これはどちらかが、プイグのタイプ・ミス? Bのアナは「アナ・マリア」と変わるものの、最初の夫フィト、その後付き合うポッシ、そして極右のアレハンドロ、娘クラリータは同じ。

  また、W218が登場するAの時代設定。W218が初めて登場してポータブル・コンピュータに質問を入力するシーンでは「年、1998/月、氷河/日、13/質問、わたし、W218は、優れた男性がいるかどうか知りたい/回答、義務を果たし、待ちなさい」とある。『天使の恥部』は1979年に発表されており(Bの物語の時代設定は1975年)、1998年を西暦ととれば、およそ20年後という近未来になる。ちなみに小説では、極の変動後世界が一変したこともあり、西暦から極紀元(極暦)という新たな名称になっている。

  このように登場人物の名や時代設定などが変わったりするものの、大まかに言えば、全体の構成、ストーリー展開はほぼ同じ。今では2時間前後の映画が多くなったが、かつては90分というのが規準で、映画館では2本立てで上映されたものだった。いずれにしても、そうした時間の縛りがある以上、また映像にしたときの効果を考えて、当然のことだが、エピソードは取捨選択され、手直しされる。そんなシナリオの始まりは……


  タイトル。手術室の音。


  燕尾服を着た太りすぎの老人が、足の不自由な人のように、独特の音を立てながら片足を引きずって歩く。ゴム手袋をはめ、綿布の上に横たわるとても美しい若い女性に近づく。縛られているのかもしれない。彼は切り口を思い描く。メスを取り、その若い女性の心臓のところに差し込む。大きく切ると、心臓のかわりに時計仕掛けが現れる、血は出ない。


  こうして小説同様の、男と女、母と娘の関係、受け継がれていく生、あるいは男、女そのものの性格、自己と他者、アルゼンチンの現状、アルゼンチンそのものを問う作品が始まる。そして作者本人が自作を映画用のシナリオにするとこんなふうになるのかと感心しながら読みつづけていくと、最後に驚かされる。ラスト・シーンがまったく小説と違うからだ。だが、その違いこそが、このシナリオの意義だろう。少し長くなるが……


  ブエノスアイレスの母親のアパート。母親は電話のそばに坐って、とても緊張して待っている。ずっと向こう、バルコニーではクラリータが一人の友だちとお人形遊びをしている。電話が鳴る。母親は電話に出るのを怖がる。結局、出る。


母親  もしもし……ええ、もう退院したの?

アナ・マリア(電話での声)  母さん……いい……ニュースが……あるみたい……。

母親(なかなか信じがたく)  もちろん、そうじゃなくちゃ……いけないよ……。

アナ・マリア  わかるわね……いつだって危険はあるの……。

ベアトリス(電話のそばで、アナ・マリアに向かって)  危険……わたしたちはだれもがあぶないの……。

母親  何を笑ってるんだい?  いかれたのかい?

アナ・マリア  いいえ、全然、いかれちゃいないわ、ベアトリスのせい、おかしなことを言ったから……。ねえ、母さん、来てほしいの……すぐに……。来るために、何もかも片づけて……。そして授業に……さしつかえなかったら……連れてきてほしい……(ひどく興奮して)クラリータを……。来たいかな?  呼んでくれない……お願い。

クラリータ(電話に向かって)  マミー……。

アナ・マリア  元気?

クラリータ  マミーは元気?  わたし、手術しなかったの……。(間)来ないの?

アナ・マリア  ええ、養生しないといけなくて、長いことかかるわ。(ここで感極まり、先が続けられない)……たくない?

クラリータ  何を、マミー?

アナ・マリア  ……たくない?  そうね、いつかまた話しましょ。すぐに二人に電話するから……、キスを……。チャオ、チャオ……。(電話を切る。ベアトリスに)とっても会いたい……二人に……。ほんと、それはほんと。

ベアトリス  どうしてそんな目で見るの?

アナ・マリア  ……。

ベアトリス  あなたに言った手術の話もほんとよ。

アナ・マリア  かまわない……少ししか時間が……残っていなくたって、大切なのは、二人に会えること……もう一度。

ベアトリス  二人を抱き締められるわ、しっかりとね。

アナ・マリア  抱き締めることより、わたし……二人と話がしたい……たがいに……わかりあえるまで……。


  バルコニーでふたたび友だちと遊ぶクラリータに向けたカット。


友だち  あなたのママ、なんて言ってた?

クラリータ  なんにも……。

友だち  なんにもって、どういうこと?

クラリータ  ええと……。(軽く頬笑み、かすかにわかるくらいの優しい表情で)    すぐ来るって。(お人形遊びを続ける。下の通りでは、もしくは正面の広場では、男の子の一団が荒っぽくサッカーをし、ゴールに、荒々しく、力強い歓呼の声を上げる。


〔*クラリータの台詞のうち、太字の部分は、プイグのタイプ・ミスか消し忘れ。アナ・マリアの言葉をクラリータ
がそのまま繰り返しているともとれるが、アナ・マリアと母親との会話からすると、矛盾が生じる〕


  小説では、アナは、ベアトリスにアルゼンチンの母親に電話の取り次ぎを頼んだあと、「抱き締めることより、わたし……二人と話がしたい……たがいに……わかりあえるまで……」と言うところで終わる。従ってアナは、母親ともクラリータとも話をしていない。にもかかわらず、二人に電話で話をさせ、また最後にクラリータのカットをつけ加えたのはなぜだろう。それを知るためは少し戻らなくてはならない。小説ではアナとクラリータが話すシーンは皆無と言っていいが、シナリオでは次のようなカットがある。


  コロン劇場のボックス席。舞台ではバレエ。ボックス席には、アナと退屈そうな顔をした5歳の女の子。


アナ・マリア(夢中になって)  気に入った?

クラリータ  ええ、でもどうしてピラールは来なかったの?

アナ・マリア  今日は、そうしないといけなかったの、お休みの日だったから。

クラリータ(服が少しわずらわしい、少しチクチクする)  じゃあ、ピラールと出かける、あたしのお休みの日はいつ?

アナ・マリア  毎日、一緒にいるでしょ。あなたのお休みの日は、マミーと一緒にいるの。

クラリータ  ああ……。

アナ・マリア  どうしてそんなに掻いてるの?

クラリータ  チクチクする服しかプレゼントしてくれないもの。

アナ・マリア  絹よ、絹はチクチクしないわ。

クラリータ  あたしはするの。それにプレゼントしてくれた他の服もおんなじ。(アナは娘の非難に反発する。)


  ここではクラリータがアナ・マリアに反発し、実の母親よりも乳母のピラールに親近感を抱いていることがわかる。娘を自分の手で育てることができず、強い母性愛を示すことのできなかったアナ・マリアだが、わずか5歳の子にとっては、呼べばすぐ応えてくれるような距離に普段はいないアナ・マリアは愛して欲しいという感情を伝えられない存在、従って名目は母親であっても、一緒にいても楽しくない、嬉しくない他人でしかない。だが、このいわば冷めた関係は次第に変化していき、物語の終わり間近になって大きく変わる。

  若い女性(W218)は病になり隔離区域に収容されるが、彼女の左隣のベッドには瀕死の老女、右隣には少し若い老女がいる。その女性がW218に瀕死の老女の話をする。


老女  (略)ある晩、彼女は外に出たの、そしてどうやってかはわからないけど、寒さが(アナ・マリアが病衣のまま、メキシコの病院から逃げていくのが映像化される)、極地の星の輝きか、娘会いたさか、ともかく彼女の肉体は空中分解し、誰も彼女を引きとめられなかった。


  そして彼女は故国に戻るが、戦争の只中。その中央広場に彼女は病衣のままで現れ、「一人の兵士は、天使が空から降りてくるのを見た、というのもその女は性器がなかったから、天使たちのように……(略)そして彼女は廃墟の中で娘を探すの、やがて(略)彼女を見たとき娘は、死んでるものと思ってたから泣いてたの、でも今、会えてとっても幸せ、と言う(略)」

  この後すぐ、次のカットに続く。


アナ・マリア自身、病衣を着て、女の子を愛撫する。


女の子(クラリータ)  どうして行っちゃったの?  あたしを棄てたの?

アナ・マリア  いいえ!  何を言うの?  あなたに教えなくちゃならないことはいっぱいある!  わたしは一度だってあなたを棄てたことはない!  自分がとってもばかで、ピラールのほうがわたしよりうまくあなたを育てられると思ったせいなの、でも今は、わたしも人生であなたに何かを教えられると思ってる……。(彼女を抱きしめる)

若い女性(左隣の老女が息を引きとるのを見ながら)  でも、死んでる……。

老女  いいえ、彼女は、大好きな娘さんの思い出の中で生き続ける……。


  こうして、老女がW218に語るエピソードに登場する戦場の女の子とクラリータが、そして左隣のベッドの瀕死の老女と癌に冒されたアナ・マリアをオーバーラップさせることで物語全体は、母娘のわだかまりを消そうという方向に進む。

  先に訳した最後から1つ前のシーンで、アナ・マリアが二度、「……たくない?」とクラリータに訊く台詞がある。原文ではこの「……」にあたる動詞が省略されているため、このような訳にせざるを得なかったが、ここにはどんな言葉が入るのか。「会う」も可能だろうが、会話の流れからすれば、自然なのは、やはり「来る」だろう。そう捉えると、アナ・マリアはクラリータにメキシコに「来て」もらいたがっているのに、メキシコに、自分のもとに「来て」と要求することができない。言えないのは、生まれてからずっと娘に母親らしいことをすることができなかった負い目からくる遠慮、ためらいからか。そうしたものを少しでもなくし、自分の望みを素直に伝えるためには、まず話し合わなくてはならない。

  一方、クラリータの思いは最後のカットで描かれる。母親と話したことを友だちに訊かれると、母親がすぐにはブエノスアイレスに戻って来られないのがわかっていても、彼女は「すぐ来るって」と答える。どちらがどちらに来るのか、そのずれをそのまま受けとって、母娘の間の意志疎通の不全と見なすこともできるかもしれない。ただ、これは母親に、ブエノスアイレスという町ではなく、自分(クラリータ)のもとに、自分の世界に戻って来てほしい、というクラリータの願望ともとれる。そうであれば、娘の側からの母親への歩み寄りを示すことになる。

  いずれにせよ、W218が話に聞いた老女がそうであったように、アナ・マリアもどんな形でであれ病院を出て故国に戻らなくては、娘に会いに来なくてはならない。だがその故国では戦争はしていないものの、強権政治が行われている。そしてその日常が最後のシーンで象徴的に描かれる。アナ・マリアの母親のアパートのベランダではクラリータがお人形遊びをしている一方で、外では男の子たちが荒っぽいサッカーをしている。内に女、外に男という、伝統的なマチスモ(男尊女卑)の世界にアナ・マリアは帰ることになる。男と女の間の相互理解という問題が、ここでふたたび頭をもたげる。とはいえ、小説にはないこの最後のシーンというより、クラリータの言葉が最後に加えられることで、シナリオは母娘の和解というドラマをいっそう前面に押し出すことになったと言えるだろう。

  前述したことだが、プイグはラウル・デ・ラ・トーレがシナリオをいじったことに不満を抱いた。ではプイグのオリジナルのシナリオどおりに撮ったとき、果たして、どんな映画になるのか。乏しい想像力を酷使して頭の中でカットをつなぎ、物語を組み立てながらシナリオを読むと、それなりのものになりそうに思える。だが、残念ながら、『天使の恥部』という小説の面白さを十分堪能させてくれはしないだろう。


(2016.10.9)




■執筆者紹介

安藤哲行(あんどう・てつゆき)

  ラテンアメリカ文学研究者。大学を退職後は、晴耕雨読、曇は翻訳の日々。
  訳書に、エルネスト・サバト『英雄たちと墓』(集英社)、カルロス・フエンテス『老いぼれグリンゴ』(河出書房新社)、レイナルド・アレナス『夜になるまえに』(国書刊行会)など多数。
  2011年に松籟社から著書『現代ラテンアメリカ文学併走』を刊行。


『現代ラテンアメリカ文学併走』

  世界を瞠目させた〈ブーム〉の作家の力作から、新世代の作家たちによる話題作・問題作に至るまで、膨大な数の小説を紹介。1990年代から2000年代にかけて生み出されたラテンアメリカ小説を知る格好のブックガイド。詳細はこちらへ。


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