松籟社ホーム  >  安藤哲行「現代ラテンアメリカ文学併走」

2015/5/28

◆スペイン語で書かれたドイツ小説:ホルヘ・ボルピ『クリングゾールを探して』

『クリングゾールをさがして』

ホルヘ・ボルピ 著/安藤哲行 訳
発行元の河出書房新社さんによる
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  かつてスペインにブレベ叢書賞という文学賞があった。1958年に創設され、ラテンアメリカ作家の作品に限ればバルガス=リョサ『都会と犬ども』(62年度)、カブレラ=インファンテ『3頭の淋しい虎』(64)、フエンテス『脱皮』(67)等が受賞したが、72年に中断。その後の受賞者たちの活躍とラテンアメリカ文学の展開を考えれば、いかに先見の明のある審査員を擁し、いい意味での先物買い的な賞であったかが分かる。ところが、昨年同賞が復活し、先に述べたような伝統にのっとって、再開第1回目は386の応募作品の中からホルヘ・ボルピ『クリングゾールを探して』*1が選ばれた。

  ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』に刺激されて生まれたという本書は1989年11月10日、つまり、ベルリンの壁が崩壊した翌日に、ライプチッヒ大学の数学教授リンクスがヒトラー暗殺未遂事件とその後自らが置かれた状況を綴った序文で始まり、第1部ではアメリカ人フランシス・P・ベーコンとリンクスの出会いとそれぞれの過去、第2部では46年から47年にかけて2人が取り組んだクリングゾール探しと37年から45年にかけてのリンクスの生活とドイツの状況、そして、第3部では89年11月にもどって、ヒトラー暗殺未遂事件とナチスの核開発の全容の回顧と精神病院でのリンクスの現状を、リンクスを語り手として描く3部仕立てとなっている。

  幼少年期から数字やチェスに関心を持っていたベーコンは物理学を志してプリンストン大学を首席で卒業、アインシュタインのいるプリンストン高等研究所の助手となりフォン・ノイマンのもとで研究を続ける。一方、キオスクで働いていた黒人娘と関係を続けながら、母に紹介された銀行家の娘とも付き合って婚約せざるを得なくなるが、ある朝、ベーコンの家で黒人娘に遭遇したその婚約者はゲーデルが講演している教室に乗り込んで、ベーコン相手に修羅場を演じる。この一件がもとで研究所にいられなくなったベーコンはフォン・ノイマンの勧めに従ってロンドンでアメリカ海軍の科学担当の諜報員となり、やがて大戦が終わったとき、ヒトラーの信任あつく科学政策面での全権を握っていたクリングゾールというナチスの科学顧問の正体を探ることを命じられる。

  リンクスは幼いころからの親友ハインリヒが親しくなった女性ナタリアの友人マリアンヌと結婚し家族付き合いを続けるが、ワイマール時代に哲学を志していたハインリヒがナチス政権になって軍に入ったことから、絶交。ハインリヒは軍務で長期不在となり、マリアンヌがナタリアを自宅に呼んで彼女の寂しさを慰めたのがきっかけで、リンクスを中心とした三角関係になる。40年から44年のあいだリンクスはハイゼンベルクの核開発計画に関わるが、このころ、ナチス体制に疑問を抱いたハインリヒはヒトラー暗殺をたくらむグループに加わり、リンクスにも参加を呼びかける。1944年7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件が起きて首謀の将校はその日のうちに射殺され、以後、大掛かりな徹底した共謀者捜しが行われ、リンクスも逮捕される。だが、裁判当日となった45年2月3日に連合国側の空爆で裁判官が死亡、その偶然のおかげでリンクスは処刑を免れる。

スペイン語版En busca de Klingsor

(Seix Barral, 1999)

  2年後、妻を亡くし生きる目的を失いかけたリンクスのもとにベーコンが現れる。カントールに心酔し多くの著名な科学者と知り合いであるリンクスはベーコンの話を聞き、クリングゾール探しの手助けをすることになる。クリングゾールとはそもそもナチスが政策上でっちあげた呼び名かもしれないのだが、2人は実在の人物がいると確信。ここ20年のドイツ科学のモノグラフを作る準備のためという名目で、プランク(1918年ノーベル物理学賞受賞)、ラウエ(14年同)、ハイゼンベルク(32年同)、シュレーディンガー(33年同)、ボア(22年同)といった錚々たる人物に直接会って話を聞き、クリングゾールをあぶりだそうとする。そうした調査・探索の間に、ベーコンは1人の乳飲み子を抱えた女性と出会い、任務の内容まで洩らすほどに親しくなるのだが……。

  『クリングゾールを探して』の主な舞台となるのはワイマール共和国時代からナチスの台頭、ヒトラー暗殺未遂事件をへて連合国側に占領されるまでのドイツ。そうした歴史を背景にして、ナチスとアメリカの核開発をめぐる科学者たちのせめぎあい、霞を食って生きているように思われがちな物理学者や数学者たちの功名心や俗物性をあらわにするエピソードに、リンクスとベーコンの欲望と恋愛をおりまぜ、さらにはナチスといえば当然かもしれないが、ワグナーの「パルジファル」をも取り込んで、20世紀をリードした物理学の影の部分を、そしてまた、社会現象の、あるいは人間のとる行動の不確実性を描き、真実とは、悪とは何かを説き明かそうとする。「科学と犯罪の共同は自然なことに思える。つまり、結局は、科学には倫理的、あるいは道徳的な限界が分かっていないのだ。科学とは世界を知り、そこで行動させてくれる記号の体系にほかならない。物理学者にとって、あらゆる物理学者にとって――そして数学者、生物学者、経済学者にとって――人の死は宇宙で起きる無数の現象のうちのひとつにすぎない」とリンクスは冷やかに語るが、欲望に溺れて友と妻を裏切るという行動をとりもする。それでは「パルジファル」に登場する魔法使い、悪の権化であるクリングゾールとはいったい何者なのか。

  審査にあたったカブレラ=インファンテは「『クリングゾールを探して』はサイエンス・フュージョンと呼びたい芸術の1つの好例である。わたしたちが文化と呼んでいるものを形づくるための、歴史、政治、文学と科学とのフュージョン。これはスペイン語で書かれたドイツの小説である。ホルヘ・ボルピは登場人物――歴史上の人物、そしてフィクションの人物――の創造でまったく失敗していないし、すべてが映画や多くの小説・戯曲に不可欠な要素、すなわちサスペンスの凝縮力によって結びついている。この先起きること、それを知ることがわたしたちの好奇心をそそり、気をもませる。その意味でこの小説は傑作である」と、440ページにおよぶ本書を的確に評したが、確かに、ここ数年では、もっともスリリング、また知的好奇心をも満たしてくれる作品と言える。

  作者ホルヘ・ボルピは1968年、メキシコ生まれ。メキシコ国立自治大学で法律と文学を学び、スペインのサラマンカ大学で哲学の博士号を取得。化学を専攻して仕事にしたメキシコの詩人を扱った『ホルヘ・クエスタの教職』(1990)で「プルラル」誌の評論賞を受賞したあと、処女小説『暗い沈黙にもかかわらず』(92)では、そのクエスタの詩や手紙、そして受賞評論をも取り込んで、クエスタと同じホルヘという名であることが一種の強迫観念となった若い作家(むろん同名のボルピを想起させる)が化学という錬金術と詩の世界で永遠を探しつづけたクエスタの苦悩を追体験しようとする様を綴る。以後も長篇『墓の平安』(95)、『憂鬱な気性』(96)、大部な評論『想像力と権力』(98)等を発表して、来るべき時代をリードする作家の1人として注目されていたが、この『クリングゾールを探して』で期待にそぐわぬ底力を知らしめることになった。

書籍版『現代ラテンアメリカ文学併走』(2011年10月刊行)より


*1:2015年5月、『クリングゾールをさがして』の邦題で河出書房新社さんより刊行されました。



■執筆者紹介

安藤哲行(あんどう・てつゆき)

  ラテンアメリカ文学研究者。大学を退職後は、晴耕雨読、曇は翻訳の日々。
  訳書に、エルネスト・サバト『英雄たちと墓』(集英社)、カルロス・フエンテス『老いぼれグリンゴ』(河出書房新社)、レイナルド・アレナス『夜になるまえに』(国書刊行会)など多数。
  2011年に松籟社から著書『現代ラテンアメリカ文学併走』を刊行。


『現代ラテンアメリカ文学併走』

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